黒曜備忘録

備忘録

物事の消化機能

食べ物を消化するのと同じように、物事を消化する機能もまた存在する。
そしてその機能には、個人差があり、またその機能の向上や低下もある。

 

消化機能が低いといっても、いくつか種類がある。
自分の中にいつまでも物事を溜め込んで、身重になる場合もあるし、
あるいは何も消化できず、ただ排泄するだけの場合もある。

 

前者は時間をかければ物事からきちんと得るものがある。
しかしひどく効率が悪く、普通の生活を送ることもままならない。


後者は溜め込まない分、それによって身重になることはないが、
物事を消化しないだけあって、ちっともそこから得るものがない。

 

しかしこの二項対立ではない。つまるところ消化機能を向上させればよい。
仏陀の教えには、その消化機能の向上も含まれているのではないか。

 

物事を客観的に捉え、観察し、気づき、そして智慧が生じる。
物事を噛み砕くときに余計なものを挟まないことで、
すんなりと素早く物事を消化することができ、悟りに至る。
あるいは、自らを混乱させるような世俗の関わりを断ち、
自らの生に関することに集中することで、悟りに至る。

 

仏教は食べ物を口にするときも気づきを絶やさないようにする。
曰く、それをしない凡夫は食べ物からロクに栄養を取れていないのだという。
これは、食べ物のみならず、物事の理解についても、きっと同じことなのだろう。

 

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そもそも、いかなる経験も「食おう」としなければ消化すらできない。
好き嫌いせず、今目の前にある事象を残さず平らげる気概というものが必要だ。

 

そうすれば、どんな嫌なことでも淡々と自分の血肉にすることができる。
糧にする、なんて言葉もあるが、つまりはそういうことである。

 

苦行を望むのも違うし、怠惰を望むのも違う。
どのようなものであれ、好き嫌いが生じればそこに健固な精神は生まれない。

 

どんなことでも残さず食え、ということだ。
消化機能云々の前に、好き嫌いの食わず嫌いがあればそれは悲惨なことなのだ。

フラッシュバックを止めよ

人はいつも、何かを思い出そうと、尋常ではない努力をしている。
そして、それは大抵無意識に、無自覚に行われる努力である。

 

種々の感情は、物事を見て、それに関する感覚を想起することで始まる。
今まで生きてきた上での経験、知識、感覚、受けた/起こした感情を、
人は常に、何かを見た時、すかさず、見たものに関連するものについて、
それらを想起し、見たものに当てはめ、そして感情の追体験を行うのである。

 

さらにいうと、何もそれは、過去に起きた出来事である必要もない。
自分が未来を想像し、予想する。そういった過程の中で生じた感覚、感情でさえも、
隙さえあれば思い出し、想起し、そして再び同じように味わうことになるのである。

 

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PTSDという病気がある。過酷なストレスを受けた人間が、些細なきっかけにより、
その受けた出来事や感覚、感情をフラッシュバックさせ、苦しむという症状だ。

 

しかしこれは、特別なことではない。過酷なストレスを受けていない人間でも、
普段からまったく同じことをして、同じ機序によって苦しみを受けている。

 

それどころか、実際に体験していない、妄想によって生み出した感覚ですら、
人はそれをフラッシュバックさせ、強い苦しみや感情を巻き起こしているのである。

 

フラッシュバックを受けた人間は、心ここにあらずの有り様となる。
「今ここ」に生きることはかなわず、目の前の現実をそのままに認識できなくなる。

 

思い出そうとすることをやめなくてはいけない。
フラッシュバックの発生に常に気を配り、それを抑えなくてはいけない。

ダメ人間を愛せよ

ダメ人間を愛することは人の心に平和をもたらす。
なぜなら、世の中の普通の人間なんて大抵どこかダメな部分があるからだ。

 

これはある種の慈悲の感情(仏教的な)であり、隣人愛なのである。
そしてもし、ダメな部分が見つからない人間がいたのであれば、
わざわざ愛そうと思わずとも、ダメじゃないのだから、自然と好感を抱くだろう。

 

一見欠点がない人間がいたとしても、好感を持てないのであれば、
その時点で欠点がないとはいえないだろう。つまり、そいつもダメなのだ。

 

人の欠点を憎むよりかは、チャームポイントと思っていたほうが幾分楽である。

道の真ん中, 中央, 中道, 真直

道を歩く時は、極力真ん中を歩くように意識すると、精神が安定する。
人とすれ違う時も、相手と睨みあわず、ただ少し軸をずらすだけですれ違える。

 

それと同じように、あらゆる場面において「真ん中」を意識することで、
精神の安定を図ることはできるだろうか。

 

「真ん中を歩く」ということは、少なくとも「踏み外す」ことからは遠い。
確かにそれを意識することにより、余計なものに気を取られることは少なくなった。

 

真ん中を歩くというのは、バランス感覚も重要になってくる。
真ん中を意識することで、バランスが取れた生き方が出来るようになるか?

 

真ん中を歩くということは、よろめかず、傾かず歩くということだ。